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【新規企画】 80年代のパイオニアたちの座談会 VANNING PIONEER DISCUSSIONS 80年代のパイオニアたちの座談会 バニングは日本で生まれた文化だ。バニングという言葉も日本人が作った。カリフォルニア・テイストから徐々に日本独特のバニングを発展させてきた。当時の世相を反映させたセクシーなものや空力から生まれたエアロも採り入れたものが80年代だった。でもまだLAの香りはかすかに日本生まれのバニングには漂っていた。 ――初めての本格的なバニングとの出合いはいつですか。 田島寛(以下田島) 私が24歳の時、72年にホットロッドサービスを立ち上げました。2年後の74年、アメリカに行くことになったんです。エアブラシの描いてあるバンを見てショックを受けました。 相原栄蔵(以下相原) 76年3月、たまたま東京・中野の「シカノカンパニー」の鹿野さんと「無限」の本田俊博さん(本田宗一郎の息子)とアメリカに行く話があり、一緒について行くことになりました。ロサンゼルスのモーテルの下に「カリフォルニア バン・コンバージョン」というバンを売る店があったので見学しましたた。これが西海岸のバンかと思いました。 遠藤章嘉(昭良・以下遠藤) 釣り好きの兄弟のための1ボックスカーは面白いかもしれない、とひらめきました。その時、アメリカの雑誌「VAVS」を見て、「これは凄い」と思いました。それがバニングを作るきっかけになりました 田島 81年に宣伝用デモカーとして6輪車を作りました。トラックには6輪車(後ろが4輪)がありましたから。 相原 なんだこれは、と6輪車には私も驚きましたね。 田島 アメリカには「なにこれ?」みたいなというものがありますからね。目立てばいい、他人がやらないことをやる。 相原 80年頃のある日レンタカーの会社の社長からバニングを「これからはセックスカーの時代ですね」と言われてショックを受けました。本来のキャンパーに戻さなければと思い、木目を多用した落ち着きのある大人のクルーザー風カスタムカーを作ろうと決心しました。 遠藤 私の所は中古車から始め、当初は窓埋めさえできなかったんです。 現在でもバニングが好きな50代のお客さんがいて車検を取ったりしています。バニングを一度売ってしまったが、再び欲しくなって買い直した人もいます。1000万円かけたバニングが何分の1の価格で売らなければならないのはかわいそうですね。 相原 07年に(株)ロータスを息子の和人に社長を譲り、会長になりました。まだロータスRV販売(株)は社長として頑張っていますが。 ロータスはこれからも大人のキャンパーを追求していきます。 遠藤 バニングが元のような姿に戻ることは難しいかもしれませんが、なにか新しい波が来るかもしれません。 田島 アメリカにはときどき根本的な部分で全く違った発想が生まれてくるモノがあるから面白いんです。 相原 1BOXというワイドな空間の中で、私たちはいかに創造性を発揮してきたかがバニングの歴史なんですよ。そこで車作りの原点を、学ぶことができました。これからはそんな苦労をカスタムカー作りにぜひ生かしてほしいですね。 田島 6輪車を作った頃は、誰にもやれないことをやれた時代。今はなぜそんなことをやるんだ。いくらコストをかけ、いくら効果があるんだ、という損得勘定が先に出てきます。80年当時は、全国からとんでもないカスタムカーが生まれました。バニングにとっていい時代でしたね。
VANNING PIONEER TESTIMONY 90〜2000年代を支えた男たちの証言 90年代から2000年代の前半はバニングにとってサイコーにいい時代だった、とあらためて思う。「キング・オブ・ジャパニーズ・カスタムカー」と呼ばれるのがバニングだった。96年5月の「東日本バニングフェスタ」が開催された富士スピードウェイの駐車場にはなんと1700台が集合し、参加人数は5000人。新しい技術やアイデアは惜しげなく注ぎ込まれ、まさに黄金期だった。 90年代に入ってからも、バニングの勢いはとどまるどころかそれまで以上にすさまじいパワーを発揮して、日本のカスタム界を席巻していった。 ブリスターキット・ズームを大ヒットさせたセカンドハウスの高木満弘氏は、当時のバニングの盛り上がりについてこう振り返る。 「90年代半ばのバニングの盛り上がりはすさまじいものがありましたね。お客さんがバニングにかける金額もハンパじゃなく、1000万円オーバークラスの注文も結構ありました。もちろん、コチラとしてもそうした手の込んだクルマを製作するのに、半年から1年もの時間をかけてましたね。新車ベースでの製作も非常に多かったし、週末になると時には見積もりの順番待ちなんてこともありました」。 90年代半ばに一大ムーブメントを巻き起こしたバニングは、その後もさらに過激なスタイルへと限りない進化を遂げていく。100系ハイエース・スーパーロングを筆頭とするバニングのベース車両には、その巨体の至るところにコダワリとセンス、そして最新のカスタム技術が次々と注入されていった。フェイススワップ、ワンオフエアロ、電動ガルウイング、6輪化などの大がかりなカスタムは、すべてバニングというカスタムジャンルで定番化されていったものだ。 バニングのカスタム技術はとどまることを知らず、それ以降も、より過激なテクニックが続々と投入されていった。 そして、90年代半ばから00年前半のバニングバブル時代には、歴史に残るバニングの名車たちが数多く世に送り出された。 ショップとオーナーのセンスやアイデア、技術のすべてを注ぎこみ、日本独自のカスタム文化として一時代を築いたバニングは、まさに“キング・オブ・ジャパニーズ・カスタムカー”と呼ぶにふさわしいビッグウエーブだったのだ。 バンナーたちにも当時の思い出を聞いてみたが、やはり出てきたのは仲間同士のつながりについての話だった。 栄枯盛衰が世の定めであるとおり、日本全国に一大ムーブメントを巻き起こしたバニングは、大きくなり過ぎた我が身を支え切ることができなくなっていったかのように、02〜03年頃から急激にその数を減らしていった。 NOx法の施行で乗り換えを余儀なくされた人が多かったことや、あまりにも過激になりすぎたカスタム、アワードへの過剰な執着など、考えられる原因はいくつかあるが、あえてココでバニングが衰退した原因を探ることは避けておく。 90年代半ばから00年にかけてのバニング黄金期は終わったが、現在でもバニングを愛する多くのバンナーたちが日本全国でバニングライフを楽しんでいる。 自分たちのスタイルで、過剰にカスタムを競い合うこともなく、仲間や家族たちとノンビリとバニングを楽しんでいる姿を見ると、コレこそがバニング本来の楽しみ方なのだと思いしらせる部分も多い。 同時に、70年代後半から30年以上にわたって多くの人々から愛され続けている、「バニング」という唯一無二のカスタムジャンルの、懐の大きさと偉大さを改めて実感させられるのだ。
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