ホンダS800&N360

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CONTENTS

ホンダS800&N360(HONDA S800 & N360)

究極の保存版
本田宗一郎の遺産 撮り下ろし特別企画

撮り下ろし特別企画

  • ホンダS800(HONDA S800)
  • ホンダN360 (HONDA N360)
  • ホンダRSCの顔 木村昌夫

STORY
黎明期ホンダ4輪開発秘話
63年リェージュ-ソフィア-リェージュラリーにホンダS500が挑戦

EVENTS
第28回オールジャパンホンダスポーツミーティング
第1回Nミーティング

ホンダSは本田宗一郎が4輪へ進出する足がかりになった記念すべき車である。いきなりスポーツカーで4輪市場に殴り込むのは本田宗一郎らしい。しかし、藤沢副社長はホンダT360というトラックを出すことも忘れなかった。スポーツカーのあとは軽乗用車のホンN360だった。この車は発売2カ月でベストセラーになるほど人気が高かった。

上級クラスを超えたスポーツカー

HONDA S800ホンダS800 ホンダは2輪から4輪へ進出するときに、いろんな選択肢を探った。黎明期に元ホンダF1チームの監督を務めた中村良夫は、くろがねでの経験を生かし、FFの空冷V型4気筒搭載の軽トラックのXA‐170、FRの空冷水平対向4気筒のスポーツカーのXA‐190、軽のスポーツカーのAS‐250などを開発しテストした。 62年1月の年初記者会で「4輪進出」を発表した。同年6月の「第11回ホンダ会総会」にホンダスポーツ・360(356cc)とホンダスポーツ・500(492cc)が顔を見せた。62年10月の第9回全日本自動車ショーで2台の車がターンテーブルの上に載り、脚光を浴びた。63年10月にホンダスポーツ・500はホンダS500(531cc)と改称され発売された。そして64年3月にホンダS600(606cc)が発売された。もっとパワーをに応えてホンダが対応した結果だった。 64年5月には「第2回日本グランプリ」にはロニー・バックナムがホンダS600で優勝。2位は北野元。3位は島崎貞夫が入った。「64年ニュルブルクリンク500km」で北野のボディに島崎のエンジンをドッキングしたマシンをデニス・ハルムが駆り優勝している。 もっとパワーをの声に応えて、66年1月からホンダS800(791cc)が発売された。 68年5月にはホンダS800Mが発売され、70年7月ころまで販売が継続された。軽自動車からスタートしたホンダSはリッターカーに近い排気量までアップされ、ユーザーの期待に応えたが、約7年で終焉を迎えた。

28回目のホンダSミーティング

第28回オールジャパンホンダスポーツミーティング
●07年11月24日/三重県鈴鹿市・鈴鹿サーキット

センセーションを巻き起こした軽自動車
ホンダN360 TS

ホンダの車の分類記号でNはセダンを表す。ホンダN800は65年の第12回東京モーターショーに出品されたが未発売。その翌年の第13回東京モーターショーにホンダN360が出品された。67年3月に万を持してをホンダN360は発売された。その反響はすごいもので、最高出力31ps/8500rpm、最高速度115km/hの高性能と狭山工場渡し31万3000円、東京地区標準現金価格31万5000円の低価格はユーザーの心を捕らえて離さなかった。新発売された3月は2257台を販売。4月は3929台。首位のスバルをたった2カ月で追い越してしまった。11月には1万9496台を記録した。12月にはラジオやリクライニングシートを装備したMを追加発売した。 68年9月にはツインキャブを装備したT、TS、TM、TGを発売した。最高出力36ps/9000rpm、最高速度120km/hの高性能を誇った。 69年1月には通称NⅡと呼ばれる車が登場した。Tはツーリングと改称され、カスタム、スーパーDXが追加された。 70年1月にはホンダNⅢ360が発売された。ヘッドランプがグリルから独立した「三穴デザイン」が登場した。この頃からパワー戦争は一段落し、同年8月には最高出力を27ps/7000rpmに落とし、使いやすさを重視したタウンも発売された。

ホンダNの初めての集まり

第1回Nミーティング
●07年10月21日/東京都日野市・多摩テック

KIMURA MASAO HOT SHOOTING
RSCのエンジニア・木村昌夫ストーリー

ホンダ、RSC、無限で技術者として活躍した男サブホンダS800が急に速くなった理由が今明かされる

ホンダSのレースを語るうえで、RSC(レーシング・サービス・クラブ)の活動を外すことはできない。RSCの顔で活躍したのが木村昌夫だ。エンジニアとして才能を発揮し、ホンダR800&R1300などの開発に貢献した。また、RSCでは永松邦臣、高武富久美、木倉義文、松永喬、山下護祐などが活躍。隅谷守男、佐々木秀六などのドライバーはRSC育ちだ。本文 62年の第9回全日本自動車ショーにホンダスポーツ・360を2台と500(492・)3台を出品した。その後、ホンダS500は排気量を531・にアップした。最高出力は40psから44psになり、最大トルクは3・8・‐mから4・6・‐mに上がった。荒川のテストコースで乗った木村はその手応えを感じた。カタログ値の最高速度130km/hをクリアした。さらにパワーアップの要求に応えるために64年3月には606・になったホンダS600を発売した。 ホンダS500(531・)で、古我信生と鈴木義一が「63年リェージュ‐ソフィア‐リェージュラリー」に出場した。竹内と木村はその車を仕上げている。古我がセスナ用リクライニングシートの持ち込み装着した。だが、リュブリアーナのチェックポイントを通過後、事故が起こり、鈴木は死亡した。4輪走行試験室からこのラリーには早野と竹内が参加。 64年の「ニュルブルクリンク500・」にデニス・ハルムがホンダS600で優勝している。そのマシンは「第2回日本グランプリ」で2位入賞した北野元のボディで、エンジンは3位入賞した島崎のものが搭載されていた。後にホンダコレクションホールの写真で推定したことだが、エンジンにはメカニックが書いた島崎の名前があった。「荒川のテストコースで田中健二郎さんが私たちの走りを見て『北野に乗ってもらったらどうか』と言われました。Uターンとコーナーのスピードが全く違っていました。北野さんのスムーズなドライブに驚きました」 65年7月18日の「全日本自動車クラブ選手権」(CCCレース)で、浮谷東次郎のトヨタスポーツ800が生沢徹ホンダS600を抜き優勝した。 生沢の車をチューニングした人はショックだった。入社2年目の川本信彦、入交昭一郎、大塚らがボランティアで手伝っていたが、このことが後で問題になったようだ。パーツを貸したかどうかは藪の中だが、負けたことにかわりはなかった。当時の杉浦英男所長がホンダのためにやったことだからと、手伝ったことは不問に付されることになったらしい。業務として生沢を勝たせるためにホンダS600へ第2回日本グランプリに使用したパーツが組み込まれることになった。2週間ほどで竹内と木村が担当した。

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